raiki_dev’s blog

右も左も分かりませんが、よろしくお願いいたします。

意識高い系にならないように

 

 

特に新人の頃はそうだが、仕事ができない人間というレッテルを貼られないために、意識的または無意識に仕事ができる人として振る舞うために背伸びをしている人は私の観測範囲では多い。 それを続けることによって、背伸びした自分と少しずつ同化していく人は一定数居るとは思う。 一方で疲れて演じるのを止める人もいれば仕事自体に疲れて病んでしまう人も居る。

私は新人の頃、保身のために仕事が出来る人間になろうと意識していたと思う。 しかし疲れてしまい意識するのを止めたと自己分析している。 その心境に至った理由と、止めてみて良かったと思っている。

持論をここに書いてみる。

※偏見だらけなので注意

1. なぜ人は仕事が出来るという見られ方を目指すのか

そもそも論、なぜ人は仕事が出来ると思われたいのか。 これは簡単な話だが、端的にいうとその方が会社内、もっと広げると社会で生きていくために都合が良いからだと考える。

「仕事が出来る」という、曖昧な定義は敢えてそのままにしておく。

例えば会社を想像したときに、その状態は会社内での地位を守ってくれると考えることができる。 会社を構成するのは結局人間であり、人間が構成する社会というのは自然とヒエラルキーを構築することになるだろう。 ヒエラルキーが持つ一種の特性として、上にいけばいくほど過ごしやすくなることが多い。 それが例えば権力であったりもするだろう。 その法則に従って単純に考えればヒエラルキーの下に属していると、過ごしにくいことになる。 例えば、雑用を押し付けられたり、意見が通りにくかったりといった状態だ。

こういった状況を想像したときに、人間は潜在的に楽な方に進もうとする性質があるため「仕事が出来る」という状態を目指すのは自然のようにも思える。 また、ヒエラルキーの上にいくほど裁量権が増え、自己実現できる幅も増えるということを考えたら合理的な選択のようにも思える。 人生の半分以上の時間を仕事や自己実現のために費やす人が多い中で、その時間を少しでも自分が過ごしやすいようにしようと考えるのは自然の流れとして真っ当なことだと想像できるだろう。

2. 仕事ができる人間を目指した時の違和感

前章では人が仕事を出来る状態を目指すのは自然であり、合理的であるとすら述べたが、ときに少し前に流行った「意識高い系」という言葉で揶揄されるのは何故だろうか。 ここで明確にしておきたいのは、仕事が出来る人間を目指すことと、仕事ができることは全く別の話だということである。

「意識高い系」という揶揄は、「仕事が出来る人間」を目指すことを念頭に置いたときに現れる言動の違和感なのではないだろうか。

色々なメディアで擦られている気もするが、 仕事が出来る自分という状態を目指すのか、事業の成功を目指すのか何を軸としているのかで、その身からでる言動に影響を与えるだろう。 それは軸なので、隠そうと思ってもどこかで発現してしまうだろう。

2.1. 横文字とか

例えば、横文字を多様する人間などが真っ先に思い浮かぶ。 多くの場合横文字を使わないで伝わる場面が多いし、その道の権威の方は物事を説明するときに分かりやすい言葉で難しいことを言語化していることが多い気がする。 横文字は前提をスキップできるメリットがあることもあるが、一方で何のスキップにならない横文字も多い。よく見る例としては"アジェンダ"とかがそうなのかもしれないと思う。 私は最低限同じ業界のものなら万人に伝わるだろうという「知の共有が済んでいる」と思われる横文字は実はそんなに多くないと思っているたちだ。 横文字を多用する人は、その想像が足りないか、「この単語は最低限知っていないと仕事ができない人間だ」といったような一種の無意識で暗黙的な同調圧力を仕掛けてきているようにも捉えることができる。後者にいたっては事業に対して本質的ではないため、いよいよ危うい。

実際は英語が堪能すぎて自然と出てしまうパターンなど様々な可能性は否定しないが、分母が多いほうに合わせて会話したほうが色々円滑に進むということを想像すると合わせる努力をしたほうがいいだろう。

ただしここは塩梅が人によって違うので難しいことは否定しない。 私の言葉も人によっては無駄に横文字を使ってると捉えらえるかもしれないという保身もしておく。 結局は自分以外の誰かの主観で意識高いとラベルを貼られるので、自身の体感でそう言われることが多いかどうか次第なのだと思う。

2.2. 余裕感とか

また意識高いかどうかの一種の評価基準として、余裕がない人間に思われるとその傾向はあるかもしれない。 全力を出していそうで、余力がなさそうな状態。 物理的に余力がないという意味ではなく、あくまでも余裕がありそうに見えるどうかは大事な指標かもしれない。 抽象的で感覚的な部分が多いためこの例はこのあたりにしておく。

2.3. キャリア志向とか

種類は違うかもしれないが、自身のキャリアに興味がある、出世したいということが軸の人がいるかもしれない。 このパターンも似たような違和感を発現してしまう可能性が大いにありそうだ。

目指すべきところが自分の出世であった場合、自身のキャリアに繋がらないような行為は避けてしまうかもしれない。 わかりやすくいうと、行動がすべて保守的になる可能性があるしそういう人を見たことがある。

挑戦的な内容を選択して失敗するより、今の仕事の範囲の中で事業を回す方が失敗もなく、自身のキャリアにとって良いからだろう。 長期目線で行動している人と一緒に仕事をする場合、きっとそれは違和感として発現するだろう。

3. 意識高い系にならないために

前章で軽く触れたが、自分が仕事できる状態を目指すことが軸となっていると本質的ではない言動が違和感として発現してしまうと考えている。 プロジェクトの成功を第一の軸としている人間は、それだけに注力するので仕事をする上での違和感が少ないと考えている。

なぜ人は仕事が出来るという見られ方を目指すのかで前述した通り仕事ができるように見られたいという動きは潜在的に多かれ少なかれ持っていると仮定してみる。 その場合、考え方を変えれば意識高い系の違和感をを如何に取るかの手法として、プロジェクトの成功を第一の軸として動く人間になるように自己暗示するのは違和感から隠れるトンネルとして有用かもしれない。 結局その事業プロジェクトを通じて、本気で仕事をすることに変わりはなく結果的に自身の成長にもつながると考えてもみても良いと思う。

また本当はプロジェクトのことを第一に考えていても、特に新人の頃など保身のためにそういう状態になってしまっているかもしれない。 意識高い系と言われる状態は一種の自己防衛的な側面もあるとは思うが、それを装う場合にはしばしば無駄なエネルギーやストレスが自分に掛かっていることも意識すべきだとは思う。

3.1. 私の場合は

私の場合は、他人がどう自分を評価しようがどうでもいいという精神状態になるように意識している。 AIが時代とともに更なる発達を遂げて評価軸が人間から離れだすと通用しない考えだが、それまでは自分のことを評価してくるのも人間のため常に正しい評価が下るとは限らないと割り切っている。 そう考えることで、やりたいことだけに集中することができている気がするし、気が楽になったのを覚えている。 その代わりアピールはしないことになるので、評価が下がるかもしれない。 ただしそれは本質的ではない評価軸からの評価の可能性が高いので無視してよい。 むしろ変な期待値は低いほうが良いと思うし、自分が貢献する量は変わらないのなら、このスタンスの方がいいとすら思えてくる。

4. あとがき

技術的なエントリを書きたいが、エビデンスなど取ったりするために実際にサンプルコードを載せようとしたりすると時間が掛かってしまうのが悩み。 ふと思いついたこういうことを書くことによりアウトプットの習慣を作っていきたいという趣旨だが角が立ちそうな内容になってそうで怖い。

気軽に書こうと思ったら結局1時間以上掛かってしまって悩ましい。 説明が全然足りない気もしていて書き足りない感もあるが、それは文章力の問題かもしれないので切っておくのがよさそうだな。

今回は文章だけと決めてたので、.adoc ⇒ .html 変換してhtml貼り付けでいけるが、画像など埋め込むとなると、厳しそうだな。。。

4.1. 追記

Webページの左側に、目次を表示して、各見出しにスキップできるようにアウトライン込みのHTMLで出力していたが、縦型Displayで見た時に、本文に被ってしまっていたので廃止した。 想定していたよりasciidocで書くメリットが薄くなってきてる。